「クラシック > 古楽・バロック・宗教音楽」の商品をご紹介します。

【輸入盤】 モルター(1696-1765) / 聖金曜日のオラトリオ『最も悲しい日』 カメラータ・バキエンシス 【CD】
出荷目安の詳細はこちら商品説明バロック後期のオラトリオ受難曲が蘇演者により初録音!モルター:聖金曜日のオラトリオ「最も悲しい日」 ワーグナー(ソプラノ)、ラングナー(アルト)、グラウビッツ(テノール)、ミュラー(バス)、カメラータ・バキエンシスレーゲンスブルクの音楽学者ヴォルフガング・ホルンが、現在存在が確認されている約350曲のモルターの作品を精査していた際に「最も悲しい日」の楽譜を発見し、演奏可能な楽譜に編集。それを元に2022年にライプツィヒで復活蘇演がおこなわれ、同時期にレコーディングされたのがこのCDの音源となります。ザクセンとバーデンの宮廷作曲家モルターはザクセンのアイゼナハとバーデンのカールスルーエで宮廷楽長を務めながら、当時の先端だったイタリアへの長期研修を2度も認められており、作風にもイタリア的なものが反映されています。そうした事情もあってモルターといえば協奏曲がよく知られていましたが、今回のオラトリオ受難曲でも、旋律の美しさやドラマティックな進行、器楽の活躍などにイタリアの影響が感じられます。 モルターの研究が本格的になったのは20世紀後半のことで、約600曲のうち約350曲の存在が確認されており、そのうちの100曲以上がすでに印刷物として入手可能であり、今後はとりあげられる機会も増えて行くものと思われます。 ブックレット(英語・16ページ)には、ドイツの音楽学者、ベルンハルト・シュラメックによる解説などが掲載。Brilliant Classics ・ Piano Classics ・ Berlin Classics ・ Neue Meister 作品情報◆作曲時期はモルターがアイゼナハで宮廷楽長を務めていた1730年代と考えられています。◆イエスの受難は当時のプロテスタント社会で人気のあった題材で、カイザー、テレマン、ヘンデル、バッハ、グラウン、ローレなど多くの作曲家が、信徒に親しまれていたプロテスタント教会のコラールも用いたりしながら、さまざまな作者によるテキストに音楽を付けています。◆モルターの「最も悲しい日」は、大胆かつドラマティックにキリストの苦しみや人々の感動を表現するもので、ドイツの質実なプロテスタント・コラール表現に加え、イタリアの華麗さ、フランスの壮大さも感じさせる親しみやすいものとなっています。 作曲者情報 1696 ティーフェンオルト(幼少期/7年間)人口千人に満たないティーフェンオルト村◆1696年2月10日、ヨハン・メルヒオール・モルター誕生。生地はザクセン=アイゼナハ公国(人口4万人弱)の人口千人に満たない村、ティーフェンオルト・アン・デア・ヴェラ。現在のテューリンゲン州ヴァルトブルク郡バート・ザルツンゲン市のティーフェンオルト区に相当し、現在の人口は4千人弱。プロテスタントとして受洗◆ザクセン=アイゼナハ公国はルター派のプロテスタント領邦で、父ヴァレンティン・モルター(1659-1730)、母マリア・オッティリア(1670-1745)も同じくルター派のプロテスタント。◆ヨハン・メルヒオール・モルターは、ティーフェンオルト村の聖ペテロ教会で、「アダム・ヨハン・メルヒオール・モルター」として受洗。同教会は元々はカトリック教会でしたが、プロテスタントによって接収・再建されています。父はプロテスタント領邦の職業音楽家◆ルター派プロテスタントでは、領邦(自治体)によって教会の職業音楽家を教師兼務で雇用するところが多かったため、モルターの父ヴァレンティンもカントルと教師を兼任し、幼少期から息子のモルターに音楽教育を実施してもいました。 1703 アイゼナハ(ラテン語学校、宮廷音楽家/14年間)ラテン語学校◆1703年頃、ラテン語学校で学ぶため、約20km北西に位置する首都アイゼナハ(人口約7千人)に転居(寄宿)。当時は元々カトリックの教育機関だったアイゼナハ修道院のラテン語学校を、プロテスタントが接収して運用しており、バッハ(1685-1750)も1695年に転居するまで同校で学んでいました。また、プロテスタントに接収される前のカトリックだった時代には、かのマルティン・ルター(1483-1546)も15歳から17歳まで同校で学んでいます。合唱団◆ヨハン・コンラート・ガイストヒルト(1672-1734)指揮するシンフォニアカス合唱団に参加。アイゼナハの聖ゲオルク教会や宮廷で歌っています。ちなみにこの聖ゲオルク教会もカトリックの教会をプロテスタントが接収したもので、カトリックの時代にはルターが聖歌隊員として歌ってもいました。宮廷楽団◆ザクセン=アイゼナハ公ヨハン・ヴィルヘルム(1666-1729)の宮廷楽団に参加。テレマン◆アイゼナハの宮廷では1708年12月からテレマン(1681-1767)が招かれて楽団や合唱団を改革し秘書官にも任命され、1709年には前楽長の娘アメリア(1681-1711)と結婚。しかし1711年に娘マリア(1711-c.1743)を産んだ直後に妻が亡くなるとテレマンは宮廷職を辞して、アイゼナハの150kmほど南西に位置する帝国自由都市フランクフルト・アム・マイン(人口約3万8千人)の音楽監督に就任しています。◆辞職後も、テレマンとザクセン=アイゼナハ公の良好な関係は継続し、1717年にはアイゼナハの不在楽長に任命。テレマンは作品を定期的に送ることになり、その任務は1721年にハンブルク(人口約7万人)に移ってからも続き、1729年にザクセン=アイゼナハ公が亡くなったことで終わっています。◆モルターとテレマンの関係についてはまだ不明ですが、テレマンのアイゼナハ滞在期間は3年4か月ほどで、モルターは当時12歳から16歳の多感な時期だったので、影響を受けた可能性はありそうです。 1717 カールスルーエ(宮廷音楽家/16年間)宮廷音楽家◆1717年、バーデン=ドゥルラハ辺境伯カール3世ヴィルヘルム(1679-1738)の宮廷音楽家(ヴァイオリン奏者)として雇用。バーデン=ドゥルラハはフランスのプロテスタント、ユグノー教徒を大量に受け入れてもいました。◆バーデン=ドゥルラハ辺境伯領は人口約4万人。アイゼナハの南西約260kmに位置するカールスルーエは1715年に急ピッチで建設が始まった計画都市で、1718年までに宮廷機能はすべて移転され、1719年には宮廷職員全員がカールスルーエ居住となったほか、市民の移住も好条件で奨励し約2千人まで人口が増えています。◆バーデン=ドゥルラハ辺境伯領はプロテスタント領邦ですが、南隣のバーデン=バーデン辺境伯領はカトリックでした。結婚◆1718年7月12日、マリア・ザロメ・ロールヴァーゲン(1691-1737)と結婚。◆この結婚から、カール・トビアス(1719-1719)、マリア・ヴィルヘルミナ(1720-1742)、フリードリヒ・ヴァレンティン(1722-1808)、エリーザベト・アウグスタ(1724-1769)、アンナ・マリア(1725-1763)、フィリップ・ヤーコプ(1726-1745)、ハインリヒ・クリストフ(1728-1765)、ヨハン・ルートヴィヒ(1731-1800)の8名が誕生。イタリア留学◆1719年、宮廷音楽家として高く評価されていたモルターに、イタリアで音楽を学ばせるために長期有給休暇が与えられます。◆1720年まで、モルターはローマ(人口約15万人)や、ヴェネツィア(人口約16万人)などに滞在し、ヴィヴァルディやアレッサンドロ・スカルラッティ、アルビノーニ、タルティーニらの音楽を学んだと考えられています。バッハは大量の楽譜を通じてイタリア様式を学んでいましたが、モルターは現地まで出向いて2年間も有給で学べたのは幸運でした。コンサートマスター◆1721年秋、イタリアから帰還したモルターはコンサートマスターに任命。宮廷楽長◆1722年4月、宮廷楽長に任命され、教会、宮廷、劇場のための音楽の作曲と指揮を任されることになります。これはカール3世ヴィルヘルムが、前宮廷楽長のヨハン・フィリップ・ケーファー(1672-1728)と報酬・休暇をめぐって衝突し解雇したためでした。緊縮財政施策◆1732年、カール3世ヴィルヘルムの方針転換により、緊縮財政施策が本格的に運用開始。それまで、工業化推進や保護貿易のための補助金支出に加え、計画都市関連施設、地下浴場関連施設の建設、劇場、動物園、植物園の運営のほか、最大88人にも達したという宮廷歌手たちの任用など、莫大な出費が常態化していましたが、以後は早期の予算編成を元に支出の削減を実施し、財政健全化に舵を切っています。◆カール3世ヴィルヘルムが多くの女性歌手を雇用していたのは、視察で訪れたヴェネツィアの慈善院で女性たちが見事な歌唱や演奏を聴かせていたからかもしれません。宮廷楽団解散◆1733年10月、ポーランド継承戦争が勃発。バーデン=ドゥルラハ辺境伯領はライン川沿いだったため、領主一行はフランス軍による戦禍を避けて1736年までバーゼルに疎開。宮廷楽団は事実上の解散となります。南隣のバーデン=バーデン辺境伯領近くのケール包囲戦では、ハプスブルク側約1千名に対してフランス軍が約3万3千名と大きな差があり、人口約8万人の小国領主の疎開は仕方のない面もありました。 1733 アイゼナハ(宮廷楽長/8年間)宮廷楽長◆1733年2月26日、ザクセン=アイゼナハの宮廷楽長、ヨハン・アダム・ビルケンシュトック(1687-1733)が46歳で急死。ビルケンシュトックは1730年に就任したばかりでした。◆1733年、モルターは故郷のザクセン=アイゼナハ公国に帰還。◆1734年、ザクセン=アイゼナハ公ヴィルヘルム・ハインリヒ(1691-1741)がモルターをビルケンシュトックの後任として宮廷楽長に任命。◆1737年8月28日、妻マリア・ザロメが死去。イタリア留学◆1737年、イタリアに向けて出発。前回訪れたヴェネツィア、ローマのほか、ナポリ(人口約32万人)、ミラノ(人口約12万人)、ボローニャ(人口約7万人)などもまわって新しい様式の調査をおこない、特にナポリ楽派のオペラやシンフォニアに感銘を受けていたようです(少し後にバッハもペルゴレージを改作上演)。カールスルーエ短期滞在◆1738年5月、イタリア滞在中に、バーデン=ドゥルラハ辺境伯カール3世ヴィルヘルムの死を知ったモルターは、急遽カールスルーエに向かい、現地で葬送音楽「忠誠の犠牲」を作曲して演奏。◆以後、モルターは新作を定期的にカールスルーエに送ることで、宮廷との関係を維持します。宮廷楽長◆1738年、アイゼナハ宮廷楽長に復帰。◆1740年頃、マリア・クリスティーナ・ヴァーグナーと再婚。◆1741年7月26日、ザクセン=アイゼナハ公ヴィルヘルム・ハインリヒが49歳で死去。…
2024 円 (税込 / 送料別)

【輸入盤】 Bach, Johann Sebastian バッハ / イギリス組曲全曲 ヴォルフガング・リュプザム(リュート・チェンバロ)(2CD) 【CD】
出荷目安の詳細はこちら商品説明すべての音を克明に響かせた超高解像度演奏&録音バッハ:イギリス組曲全曲 BWV806~811ヴォルフガング・リュプザム(リュート・チェンバロ)バッハ演奏の大御所、ヴォルフガング・リュプザムが、イギリス組曲をリュート・チェンバロで演奏した全曲録音。リュプザムは1995年にもイギリス組曲全曲を録音していたので、これが2度目の取り組みとなりますが、前回はピアノ演奏で、今回はキース・ヒルの製作したリュート・チェンバロによる演奏という大きな違いがあります。 上の画像は1段目左から、バッハ、当時のイギリスの国章、ヴィルヘルムス宮殿(通称「黄色い城」)、2段目左から、ヴィルヘルム・エルンスト公、リュート・チェンバロ、ヴィルヘルムス宮殿内の「城教会」。 ブックレット(英語・12ページ)には、ドイツのオルガニストで教会音楽家のクリスティアン・フォン・ブローンによる解説が掲載。表紙の東洋風の龍の絵はキース・ヒルが以前チェンバロ装飾のために描いたものです。リュート・チェンバロバッハはライプツィヒでは楽器のレンタルや販売仲介などをおこなっていたこともあってか、遺品目録にはチェンバロなど計8台もの鍵盤楽器が記載されており、うち2台はリュート・チェンバロでした。 リュート・チェンバロのオリジナルはすべて失われ、どのような外観の楽器かもわからないため、現在、さまざまな形で復元がおこなわれていますが、ガット弦が張られ、ダンパーを使用していないという点では共通のようです。 キース・ヒル製作による楽器を用いたここでのリュプザムの演奏は、穏やかで柔和なソノリティによる繊細で微妙な陰影のある表現が可能なものとなっています。リュート・チェンバロ・シリーズリュート・チェンバロによるBrilliant Classicsのシリーズは、これまでフランス組曲集、トッカータ集、パルティータ集、平均律クラヴィーア曲集が発売済み( ゴルトベルク変奏曲はNAXOSから発売)。シリーズの特徴-1このシリーズの録音の特徴は、眼の前に楽器が置かれたような距離感でリュート・チェンバロの音が聴こえてくることで、リュプザム自身がレコーディング・プロデューサーとエンジニアを兼ねているからこそできる大胆な手法ともいえます。シリーズの特徴-2演奏の方も実に大胆です。バッハの音楽をいったん解体し、点検しながら組み上げて行くような独特のアプローチで、近接録音の効果もあってその音の情報量は膨大です。一方で通常聴かれる疾走感や元気なリズムといった要素は希薄化されており、リュプザムの演奏目的がフィジカルな快感ではないことは明らかです。▶ Brilliant Classicsのチェンバロ録音を検索 作品情報イギリス組曲作曲時期かつてはケーテン時代に書かれたとされてきましたが、最近では各種資料の検証から、1715年頃、ヴァイマール時代の作曲と推測されています。外部からの影響「イギリス組曲」に最も影響を与えたとされるシャルル・デュパール [1676-1751]の「6つのクラヴサン組曲」がアムステルダムで出版されたのは1701年のことで、デュパールがロンドンで有名になるのは1703年頃。 バッハがそのデュパールの「6つのクラヴサン組曲」全曲を写譜したのはヴァイマール時代の1709年から1714年にかけてのことで、イギリス組曲の冒頭、第1番前奏曲の主題にはデュパールの組曲第1番のジーグが引用。ジーグはイギリス由来の舞曲でもあります(デュパールの4年後の1705年に出版されたガスパール・ル・ルーのジーグにも同じものがあります)。曲名「イギリス組曲」という曲名はバッハの命名ではなく他人によるもので、由来の推測にも諸説ありますが、デュパール引用以外で説得力があるのは、当時、イギリスの大型ハープシコードでは演奏することが可能だった非常に低い音が書き込まれていることや、イギリス的な記譜の方法、バッハの富裕層の知人にイギリス人の知人がいた話などが挙げられます。スティル・ブリゼ(壊れた様式)「スティル・ブリゼ」は、クープランなどフランス・バロックの鍵盤音楽で、リュートの演奏様式を模して取り入れたものを指し、当初はそのまま「スティル・リュテ(リュート様式)」と呼ばれていました。 これはリュートが和音を不規則に分散して演奏するアルペッジョに由来するもので、場合によっては音楽に曖昧さや揺らぎといった変化をもたらす効果もあります。 しかし、リュプザムの演奏ではすべてが克明に響くので、和音が分解された要素が揺らぐことなく示されるため、通常とはまったく違った様相を呈しています。スティル・ミスト(混合様式)様式については、当時のバッハらしく、対位法や舞曲、ギャラントリー小品に加え、フランス様式、イタリア様式、ドイツ様式などなんでもありの「スティル・ミスト」となっており、イギリスの要素についてもジーグによって盛り込まれているとみることもできます。 リュプザムの演奏では細部まですべての音が響くため、そうした多様式的な諸要素を把握しやいのも大きなポイントとなっています。 作曲家情報ヴァイマールからヴァイマールへ1703-1703 ヴァイマール (半年間在職)仕事宮廷楽士(弦楽器奏者)。宮廷オルガン奏者、ヨハン・エフラー[1643-1711]の助手を務めた可能性も。雇主ヨハン・エルンスト3世 [1664-1707]。場所神聖ローマ帝国、ザクセン=ヴァイマール公国、ヴァイマール(人口約5千人)。職場ヨハン・エルンスト3世の宮殿。通称「赤い城」。年俸27グルデン9グロッシェン(約14万円相当)。従僕待遇。1703年、18歳を迎えるバッハは初めて就職に成功。当時のザクセン=ヴァイマール公国では長子相続制度が未導入だったため、ヨハン・エルンスト3世は、2歳年長の実兄ヴィルヘルム・エルンスト公と共に共同で統治。しかし、アルコール依存症だったため、実際には統治せず。1703-1707 アルンシュタット (約4年在職)仕事教会オルガン奏者。雇主アルンシュタット市参事会。場所神聖ローマ帝国、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国、アルンシュタット(人口約3,800人)。職場「新教会」。年俸50グルデンの現金+飲食費・宿泊費30グルデンの計80グルデン(約40万円相当)。結婚式、葬儀など特別な行事での演奏では臨時手当も支給。1703年7月、オルガン試演により採用が決定し、翌8月から勤務。若かったバッハは血気盛んで、路上の喧嘩で喚問されたり、ブクステフーデをリューベック(人口約2万人)に聴きにいって心酔し、4週間の休暇を4か月無断で延長して喚問されるなどしながらも、1707年6月に辞表を提出するまで約4年間在職。アルンシュタットはバッハの一族が多く暮らした街でもありました。1707-1708 ミュールハウゼン (約1年在職)仕事教会オルガン奏者。雇主ミュールハウゼン市参事会。場所神聖ローマ帝国、帝国自由都市ミュールハウゼン(人口約7,500人)。職場「聖ブラジウス教会」。年俸85グルデン(約43万円相当)の他に、穀物や薪も現物支給。結婚式、葬儀など特別な行事での演奏では臨時手当も支給。1707年4月、オルガン奏者死亡による後任公募試験に合格。1707年6月に契約し、市の記念行事用のカンタータが市参事会により出版(バッハ初の楽譜出版)。9月に母の兄が死去し50グルデンの遺産を相続。10月、又従姉妹のマリア・バルバラ・バッハ[1684-1720]と結婚。翌1708年6月に辞表を提出するまで約1年間勤務。1708-1717 ヴァイマール (約9年在職)仕事宮廷オルガン奏者、宮廷楽士(弦楽器奏者)。雇主ヴィルヘルム・エルンスト [1662-1728]。場所神聖ローマ帝国、ザクセン=ヴァイマール公国、ヴァイマール(人口約5千人)。職場聖マルティン宮廷教会(城教会)とヴィルヘルムス宮殿。年俸金貨150フロリン(約75万円相当)の他に、穀物約450kg、大麦約320kg、ビール約300リットルと、薪4立方メートルが現物支給。1708年6月、オルガン試演に招かれた際、領主ヴィルヘルム・エルンスト[1662-1728]に、現職の宮廷オルガン奏者ヨハン・エフラーの後任を打診され承諾。ヴィルヘルム・エルンスト公所有のヴィルヘルムス宮殿(通称「黄色い城」)の中にある「城教会」のオルガニスト、および宮廷楽士として雇われることになります。 「城教会」は巨大な昇天オブジェにより「ヒンメルスブルク(天上の城)」とも呼ばれていた教会。バッハは多くのオルガン曲をヴァイマールで書き上げてもいます。1708年、ヨハン・エルンスト王子ヴィルヘルム・エルンスト公のバッハへの給与令には、亡き実弟の子で音楽好きのヨハン・エルンスト王子[1696-1715](当時11歳)の相手もするよう明記されています。ヨハン・エルンスト王子は、宮廷楽士のアイレンシュタインにヴァイオリンを習い、前年からヴァイマールの聖ペテロ・パウロ教会のオルガニストを務めているヨハン・ゴットフリート・ヴァルター[1684-1748](バッハの従兄弟)にチェンバロや作曲を師事していました。1711年、ヴァイマール宮廷で昇給年俸200フロリン(約100万円相当)に一気に昇給。この金額は1683年からヴィルヘルムス宮殿で28年も楽長(≒音楽監督)を務めるヨハン・ザムエル・ドレーゼ [1644-1716]と同額。1713年、ヴァイマール宮廷で昇給2月頃、年俸215フロリン(約108万円相当)に昇給し、楽長ドレーゼを上回ります。1713年、ハレ聖母教会オルガニスト職に応募12月、1712年8月7日に48歳で亡くなったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァーホウ(ツァッハウ)の後任募集に応募し採用が決まるものの、エルンスト公が昇給を提示したため辞退することになります。1714年、ヴァイマール宮廷楽士長に昇進2月、年俸250フロリン(約125万円相当)に昇給し、3月に宮廷楽団の楽士長(≒コンサートマスター)に任命。病身のドレーゼ楽長に代わって、カンタータの作曲や指揮も命じられるなど重責を担うことになります。1715年、イギリス組曲ヨハン・エルンスト王子は1711年2月から1713年7月までの2年半に渡ってユトレヒト大学で学び、滞在中にアムステルダムで盲目のオルガニスト、デ・グラーフの編曲演奏に触れ、それが刺激になってさまざまな音楽家の楽譜を集めた可能性があり、実際に、帰国後にバッハらに編曲させています。 バッハは王子の帰国直後の1713年7月にそれらの編曲に取り掛かり、1714年7月に王子が難病の治療のため出国(翌年8月に18歳で死去)するまでに、王子の作品も含めて多くの編曲をおこなっています。 こうしたことから、イギリス組曲はこれらの編曲作業を通じてバッハが身につけた「混合様式」の結実であるとも考えられるため、近年の作曲時期推測が1715年となっているのは妥当と思われます。1716年、ヴァイマール宮廷楽長の死とバッハの落胆12月にドレーゼ楽長が72歳で亡くなりますが、ヴィルヘルム・エルンスト公は、後任として、宮廷内の序列に従い、副楽長のヨハン・ヴィルヘルム・ドレーゼ(息子) [1677-1745]を任命しています。バッハは肩書はそのままで、268フロリン(約134万円相当)に昇給。1717年、ケーテンのレオポルト侯がバッハを宮廷楽長に任命…
2328 円 (税込 / 送料別)

【輸入盤】 ヴァレンティーニ、ロベルト(1680-1750) / リコーダー・ソナタ集 カペラ・ムジカーレ・エンリコ・ストゥアルト(2CD) 【CD】
出荷目安の詳細はこちら商品説明ヴァレンティーニ:リコーダー・ソナタ集ロベルト・ヴァレンティーニは、1671年にイギリスのレスターに生まれ、20歳前後でイタリアのローマに移住します。フルート、ヴァイオリン、チェロ、オーボエを演奏するかたわら音楽出版業を始め、自らの作品も出版し、作曲家としても知られる存在となります。コレッリの器楽的な伝統音楽を模した作品からキャリアをスタートさせ、後にギャラント様式を取り入れ、旋律の響きを重視した作品に到達します。 作品の特徴は、速いテンポでありながら比較的容易で、華麗で心地よく、緩やかなテンポでは、表情豊かなメロディをバランスよく両立させる技法を上手に使っています。また聴衆だけでなく、演奏者からも人気があった言われています。現存する作品はすべてリコーダーによる作品で、リコーダーの指導者としても優秀でした。 演奏は、2つのリコーダーを中心にヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボ、ギター、チェンバロ、オルガンを伴奏にした形をとっています。(輸入元情報)【収録情報】ヴァレンティーニ:● 2つのリコーダーのためのチャッコーナ● リコーダー・ソナタ Op.5-10● リコーダー・ソナタ Op.5-1● ソナタ『田舎での休暇』第1番● リコーダー・ソナタ Op.5-6● リコーダー・ソナタ Op.5-2● ソナタ『田舎での休暇』第2番● リコーダー・ソナタ Op.5-3● リコーダー・ソナタ Op.5-4● ソナタ『田舎での休暇』第4番● リコーダー・ソナタ Op.5-5● リコーダー・ソナタ Op.5-7● リコーダー・ソナタ Op.5-11● ソナタ『田舎での休暇』第3番● リコーダー・ソナタ Op.5-8● ソナタ『田舎での休暇』第5番● リコーダー・ソナタ Op.5-9● ソナタ『田舎での休暇』第6番● リコーダー・ソナタ Op.5-12 カペラ・ムジカーレ・エンリコ・ストゥアルト ロメオ・チウッファ(リコーダー) カロリーナ・パーチェ(リコーダー) イレーネ・マリア・カラバ(ヴィオラ・ダ・ガンバ) ミケーレ・カレカ(テオルボ、ギター) マルコ・ヴィターレ(チェンバロ、オルガン) 録音時期:2019年10月 録音場所:イタリア 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)
2328 円 (税込 / 送料別)

【輸入盤】 コッラディーニ、ニコロ(1585-1646) / 標題付きカンツォンとソナタ集 フェデリコ・デル・ソルド&アンサンブル・イル・ナルヴァロ 【CD】
出荷目安の詳細はこちら商品説明モンテヴェルディ時代のクレモナの作曲家による器楽作品集コッラディーニ:標題付きカンツォンとソナタ集フェデリコ・デル・ソルド指揮アンサンブル・イル・ナルヴァロニコロ・コッラディーニはモンテヴェルディの18年後にクレモナに生まれ、生涯のほとんどを生地を拠点に過ごしたと考えられている作曲家。マドリガルやモテットだけでなく、当時先端のスコア形式の記譜で器楽曲を書いたりしており、このアルバムでは、それらの中から、1624年にヴェネツィアで出版された標題付きの器楽曲集「カンツォンとソナタ集」をとりあげています。標題は当時コッラディーニと関わりのあった一族や著名な人物の姓にちなんだものです。 演奏は、バロック・ヴァイオリン×2、ヴィオラ・ダ・ガンバ×2、コルネット×2、リコーダー×2、アーチリュート(テオルボ)、オルガン、チェンバロというアンサンブルでおこなわれています。指揮とチェンバロ、オルガンは、音楽学者でもあるフェデリコ・デル・ソルド。▶ Brilliant Classics 検索 作曲者情報◆ ニコロ・コッラディーニクレモナの音楽家クレモナ大聖堂のオルガニストで作曲家のニコロ・コッラディーニは、1585年、18歳のモンテヴェルディが暮らすクレモナに生まれ、1646年に亡くなるまでの61年の生涯のほとんどを同地で過ごしたと考えられています。教会オルガニストモンテヴェルディの時にはクレモナに音楽家の良い仕事に空きが無く、マントヴァで働くことになりましたが、宮廷があまり好きではなかったモンテヴェルディはクレモナの実家によく里帰りしてもいました。 コッラディーニの場合は、恩師でオルガニストのオモボーノ・モルソリーノが1611年7月15日に亡くなったため、26歳でクレモナのサン・ピエトロ教会のオルガニストになっています。 そしてその年、クレモナ大聖堂で毎週土曜日と聖母マリアの祝日に演奏されていた「聖母連祷」の伴奏についてもモルソリーノの後任としてコッラディーニが任されることになります。紛らわしい名前コッラディーニの師は、オモボーノ・モルソリーノの父親であるジョヴァンニ・バッティスタ・モルセリーノ(モルソリーノ、モッソリーノ、マルサリーノ、マルソリーノとも名乗っています)で、そのジョヴァンニ・バッティスタの仕事をコッラディーニが引き継いだとする説が根強いようです。 しかし、父ジョヴァンニ・バッティスタの方は、クレモナ生まれではありますが、1568年にはバイエルン宮廷で働いており、多少の中断はあったようですが、1586年から1590年についてもバイエルン宮廷にいた記録があります。そして1590年には長期休暇を願い出てミラノ大聖堂に移っており、翌1591年に同地で亡くなっているため、クレモナで仕事をするのは難しいように思えます。なによりジョヴァンニ・バッティスタの死亡時、コッラディーニはまだ6歳ですし、「後任」になるのがその20年後というのも不自然です。 一方、息子のオモボーノ・モルソリーノの方は、1596年にクレモナ大聖堂の聖母連祷のオルガニストとなり、1611年に亡くなっているため、コッラディーニの「師」としても、「前任者」としても時系列的な問題がありません。 ちなみにオモボーノ・モルセリーノの息子、ドン・ジョヴァンニ・バッティスタ・モルソリーノは、のちにモンテヴェルディの息子の一人と親戚関係になっています。コッラディーニの作品コッラディーニは、1615年に「4声のリチェルカーレ」、1620年に「5声と8声のマドリガル集とヴィオールのシンフォニア」、1624年に「モテットとコンチェルト集」などをヴェネツィアなどで出版しており、スコア形式で書かれた4段楽譜を用いた器楽作品等、当時の先端を示してもいました。クレモナ大聖堂のオルガニスト1635年、長年に渡って「聖母の連祷」の伴奏をおこなってきたコッラディーニは、クレモナ大聖堂のオルガニストに任命されます。 クレモナ大聖堂での仕事に加え、作品出版を多くおこなっていたことからコッラディーニの信用度も上がり、クレモナの貴族など有力者が集まる協会「アカデミア・デリ・アニモージ」の音楽担当も任され、さらに市の文化機関の責任者にも任命されて、1646年8月7日に亡くなるまで名誉の時を過ごしています。 演奏者情報フェデリコ・デル・ソルド (オルガン、チェンバロ、指揮)1961年、ローマで誕生。ピアノ、オルガン、作曲、教会音楽、合唱指揮のディプロマを取得。 オルガニスト、通奏低音奏者として演奏活動をおこなっており、イタリアの重要な団体での演奏経験は多数。また、チェコ、ドイツ、スペイン、フランス、スペイン、イギリス、スイス、デンマーク、ポーランド、アメリカ、ベルギー、ポルオガルなど海外でも演奏。 バロック音楽のレパートリーに関する社会科学と言語学の研究により、多数の評論や学術論文も発表。 教育者としては、サンタ・チェチーリア音楽院、ローマ・トレ大学、ラ・サピエンツァ大学、ローマ教皇庁宗教音楽研究所、トマス・ルイス・デ・ヴィクトリア校、チッタ・デッラ・ピエヴェの古代音楽解釈コースなどで教えたほか、メキシコのモレリア聖堂音楽院、セラヤ音楽院、スペインのラス・パルマス・デ・グラン・カナリア高等音楽院、ドイツのランゲナウ音楽院などでも活動。 CDは、Brilliant Classics、Pentaphon、Camerata、Fonit Cetra、Melos antiqua。Fons Musicaeなどから発売。◆ アンサンブル・イル・ナルヴァロフェデリコ・デル・ソルドによって設立された古楽器アンサンブル。メンバーの多くはソリストとして活躍し、いくつものアルバムを録音してもいます。 トラックリスト (収録作品と演奏者)ニコロ・コッラディーニ [1585-1646]◆ カンツォンとソナタ(ヴェネツィア 1624)1. 第1のカンツォン「ラ・パラヴィチーナ」 4'122. 第2カンツォン「ラ・サルティラーナ」 4'193. 第3のカンツォン「ラルジェンタ」 4'574. 第4のカンツォン「ラ・スフォルツァ」 4'065. 第5のカンツォン「ラ・ヴィスコンタ」 3'136. 第6のカンツォン「ラ・シンコパータ」 4'297. 第7のカンツォン「ラ・ビッザーラ」 5'558. 第8のカンツォン「ラ・トレッチャ」 5'359. 第9のカンツォン「ラ・ペッサ」 2'5310. 第10のカンツォン「ラ・タヴェルナ」 2'5311. 4声のソナタ「ラ・ソラーニャ」 5'4012. 3声のソナタ「ラ・マルチャ」 3'1313. 2声のソナタ「ラ・スフロンダータ」 3'3814. 2声のソナタ「ラ・ゴルフェランマ」 3'23 アンサンブル・イル・ナルヴァロ バロック・ヴァイオリン:ヴァレリオ・ロジート(楽器:マティアス・メナントー、ローマ、2022) バロック・ヴァイオリン:パオロ・ペローネ(楽器:作者不詳、北イタリア、18世紀末) ヴィオラ・ダ・ガンバ:イレーネ・カラバ(楽器:ヴァレンティーナ・モンタヌッチ、ピアチェンツァ2019) ヴィオラ・ダ・ガンバ:アンドレア・ラッタルーロ(楽器:ジュディス・クラフト、パリ2010) コルネット:ダヴィッド・ブルッティ(楽器:マシュー・ジェネジョン、モントリオール2017) コルネット:アンドレア・インギシアーノ(楽器:アンドレア・インギシアーノ、シエナ2020) アーチリュート(テオルボ):ディエゴ・レヴェーリ(楽器:マッテオ・バルディネッリ、アッシジ2016) リコーダー:ロメオ・チュッファ(楽器:フランチェスコ・リヴィルギ、オルテ2005、2001) リコーダー:カロリーナ・パーチェ(楽器:フランチェスコ・リヴィルギ、オルテ2005、2001) チェンバロ:フェデリコ・デル・ソルド(楽器:ロベルト・マリオーニ、マリーナ・ディ・ピエトラサンタ 2020) オルガン:フェデリコ・デル・ソルド(楽器:マストロ・パオロ・ピエトロ・ダ・モンテファルコ、トレヴィ・イン・ウンブリア 1509年) 指揮:フェデリコ・デル・ソルド 録音:2022年9月、イタリア、ローマ、ポンティフィチオ・ムジカ・サクラ研究所、2022年11月、イタリア、トレヴィ、聖フランチェスコ博物館 Track listNICOLO CORRADINI 1585-1646Canzonas & Sonatas (Venice, 1624)1. Canzon prima - La Pallavicina 4'122. Canzon seconda - La Sartirana 4'193. Canzon terza - L'Argenta 4'574. Canzon quarta - La Sforza 4'065. Canzon quinta - La Visconta 3'136. Canzon sexta - La Sincopata 4'297. Canzon settima - La Bizzarra 5'558. Canzon ottava - La Treccha 5'359. Canzon nona - La Pessa 2'5310. Canzon decima - La Taverna 2'5311. Suonata a quattro, 2 bassi & 2 soprani - La Soragna 5'4012. Suonata a tre, basso & 2 soprani - La Marcha 3'1313. Suonata a due, basso & soprano - La Sfrondata 3'3814. Suonata a due cornetti in risposta - La Golferamma 3'23Ensemble Il NarvaloFederico Del Sordo harpsicord, organ and conductorRomeo Ciuffa recorder (Francesco Livirghi, Orte 2005, 2001)Carolina Pace recorder (Francesco Livirghi, Orte 2005, 2001)Valerio Losito baroque violin (Mathias Menanteau, Rome 2022)Paolo Perrone baroque violin (Anonymous, North-Italy end XVIII century)Irene Caraba viola da gamba (Valentina Montanucci, Piacenza 2019)Andrea Lattarulo viola da gamba (Judith Kraft, Paris 2010)David Brutti cornet (Matthew Jennejohn, Montreal 2017)Andrea Inghisciano cornet (Andrea Inghisciano, Siena 2020)Diego Leveri. archlute (Matteo Baldinelli, Assisi 2016)Federico Del Sordo harpsichord (Roberto Marioni, Marina di Pietrasanta 2020), organ (Mastro Paolo Pietro da Montefalco, Trevi in Umbria 1509, restored by Claudio Pinchi, 2005)Recording: September 2022, Pontificio Istituto di Musica Sacra, Rome;November 2022, Complesso Museale of S. Francesco, Trevi (Umbria), ItalyRecording, editing and mastering: Federico Del Sordo
2024 円 (税込 / 送料別)